【雑記】恋しい文字との向き合い方
予定を次々こなすことで梅雨の鬱陶しさを忘れさせようとする作戦ももうそろそろ終わる季節がきたようで。
スケジュール帳も7月はほとんど白紙なまままた新しい1日を気まぐれに塗り絵していくのであろうと思いつつ
自分の内側に溜まりに溜まった言葉を外に吐き出したくて、正確にはこれ以上内側に置いておけるスペースがなくて、アウトプットの必要性を痛感しているいま、カタカタとキーボードで書きなぐることで自分を確かめる。そんな感じだ
抽象的に生きている私は雑記を定期的に吐き出さないとモヤモヤを吹き飛ばせないのだろう
ほんとはもうすこし具体的に生きたい
目標とかの、いわゆる “あるべき姿” と現実を見比べてそのギャップを埋めていくための戦略を立てることが大切なのは痛いほどわかっているのだけれど
いまひとつ行動に移せないのは、何からしたらいいのか何から考えたらいいのか正解はないだろうに正解なやり方じゃないとやりたくない自分がいるからだろう。考えられてない。思考停止してる
冒頭に戻って、友人などに会って話をすることで自分の輪郭や人との違いなど見えてくるものもあって今後の自分の在り方を模索しだしたのである。
目の前にあることをこなすだけに終始せず、
つまるところ、CanとMustだけでなくてWillにもスポットライトを当てて暮らしたい
どんな姿になっていたいのか
日々の業務をこなしつつも、そこを頭の片隅に置いておき、理想像と比べながら方向性を見失わぬようにしていたい
ほんとうは毎日文字に起こして自分の状態を観察していたい
いまならもっと意味のある日報を書けるはず
すこしでいいから再開してみようか
文字を書くハードルを下げていつでも好きなだけ好きなように書けると
きっと言葉の幅も膨らむだろうし咄嗟に機転の利いた言葉がでてくるだろう
溜まってからだすだけでなく、
日々言葉を紡げばその分入ってくる言葉も増える気がした。言葉への感度も上がるだろうしスペースができる分、新しい言葉が入りやすくなるだろう
ゆくゆくは言葉を巧みに使いこなす仕事がしたい
はっきりはしていないし
手段と目的も線引きできていないけれど
仕事の形も考えてく必要性を感じる
恋しかったのは自分の言葉だった
人からはたくさん言葉を投げかけてもらえていて幸いなのだけれど自分の言葉に耳を貸していなかった
言葉と向き合うというのは結果的な形であって
思考整理などに必要だから言葉を外に放出する
それを何度も読み返す
次はこういう風に書こうと分析改善する
そうして結果的に自分の言葉と向き合っていることになる
まずはそういうPDCAを回していくシステムが自分の中に浸透すれば良いということ
さみしくなったらいっぱい書こう
人依存のチャットツールよりもブログがいいよ
そう思いなおした今日でした。